音楽会ないしょ話

 ナビーゲーターの市橋邦彦は、1946年東京都中野区に生まれた。幼稚園で現在もこの音楽会

の黒幕、紅林治雄という男の子と友達になる。この人、1年の内10ヶ月は日本に居ない。音楽会

にあわせて帰国するが、仕事は誰もしらない。市橋は1クラス60人で学年7クラスの中野区

桃園第三小学校へ入学。学区域再編成で、5年生の時に新設校・桃が丘小学校へ転入。6年生が居

なかったので、最高学年を2年間楽しむ。1クラス42人で学年3クラス。区内で、初の鉄筋校舎

の学校だった。6年生で学校代表の健康優良児に選ばれた。今では、そんな制度があったこと自体

忘れ去られている。その時の女子の健康優良児、福井洋子は、プログラムの表紙デザインを担当し

ている。(現在は音楽会のお客様の目黒美紀さんが担当)音楽会のシンボルマークは福井洋子の提案。

市橋は小学校のころ、毎日暗くなるまで野球に興じていた。それを家の中からじっと見ていたのが、

勉強家の宗像健志で、小学校では市橋、紅林、福井の1年後輩に当たる。第2回以降、舞台写真を

担当し、第37回からは実行委員長を務める。1組の出席番号1番だった市橋は、卒業証書第1号

をいただく。これが後々まで影響するなどとは思っても見なかった。卒業した小学校が廃校となっ

た現在も、同窓会の会長。統合された小学校の学校評議委員となり、現在同校評価委員。


 市橋は、桐朋中学校に入学。卓球部に入部するが、その頃全盛の『うさぎ跳び』で膝を痛めて退

部。少し良くなってきたと陸上部に入り、走り高跳びに挑戦。その頃は、ふかふかのマットなどは

なく、砂場に着地する。1回飛んだら、砂を掘り返して柔らかくするように言われていたが、その

注意を守らず、ベリー・ロールで右ひざから常に着地。その結果、またもや膝を痛めて退部。つい

に運動を諦め、音楽部コーラス班(部員6名・同学年には誰も居なかった)に入部。そのことが音楽

へ進むきっかけになろうとは思いもしなかった。桐朋高等学校1年生の秋、「来年はお前が部長だ。

部長はピアノが弾けなければ困る。」と先輩からピアノをしごかれた。学校のピアノと時間貸しの

ピアノが、彼の練習場所だった。練習の合間には、『灯』『カチューシャ』などの歌声喫茶に通う。

 
 桐朋学園大学音楽学部入学。声楽を伊藤武雄、萩谷納、ピアノを加納悟郎の各氏に師事。高校時

代小沢征爾氏にあこがれていたためか、声楽専攻なのに毎週オーケストラの練習を覗いていた。当

NHK交響楽団の常任指揮者だった森正先生や、もはや伝説の人物となりつつある斉藤秀雄先生

に同級生が怒られるのを、部外者の彼は楽しんでいた。そして、成績など良くなかったのに、図々

しく日本育英会と学校から奨学金をいただき、学生生活を楽しむ。又老けた顔を良いことに、大学

2年生の時に大学院生だと偽り、杏林短期大学合唱団の指導を皮切りに、関東逓信看護学院合唱団、

電気通信学園大学合唱団を指導し、東京都立大学グリークラブの常任指揮者を務めた。

 
 この頃、週3回は音楽会、芝居見物に明け暮れた。その音楽会で
皆お行儀良く聴いている姿を

見て、『こんなことでは音楽は広まらない。』 『もっと気軽に楽しめる音楽会はないのか』と考え

ことが、この音楽会の旗揚げの理由の一つになった。

 
 アルバイトがたたったか、遊びすぎたせいか、はたまた夢中になっていたアマチュア演劇のため

か、それとも音楽の才能がなかったのか、大学を6年間にわたって楽しみ、どうせ居るならと、出

来たばかりの桐朋学園短期大学演劇科を、2年間聴講(盗聴?)微妙な発声法の違いから「下手な役

者が歌っているようになってきた」と主任教授から説諭され、いっそ役者になろうかと真剣に悩む。

 
 大学のオーケストラがヨーロッパ公演(桐朋を一躍有名にした公演です)をしている隙を狙い、学

生だけでオペラ『フィガロの結婚』を上演する。声楽が専攻なのだから、舞台に立って歌うべきと

ころ、自ら志願して演出を担当。自分の歌に見切りをつけたのか、芝居の総決算だったのか、本人

も良く分からない。71年、やっと大学を卒業。中・高・大と桐朋に払った月謝を取り戻すべく、

桐朋学園小学校・音楽専任教諭となり、そのまま居続け、20093月定年退職。(正確に言うと、

大学5年次の69年から2年間、桐朋学園小学校の音楽講師を務めた。卒業もしていないのに・・)



 その間72年には、恥ずかし気もなくリサイタルを開く。更に音楽を親しみのあるものにしたい

と考え、大学時代の友人と、71年秋『小さな小さな音楽会』を旗揚げ。本人が声楽だったためか、

当初は歌が中心の音楽会だった。出演者の輪は、友達が友達を呼び広がった。当時の出演者には、

大島幾雄、加賀清孝、松本宰二、鎌田直純、大野徹也の各氏など、その後音楽界の第一線で活躍

した人も多い。

 
 スタッフも、当初はこれまた友人をかき集めるが、友人の友達も無理矢理引き込まれた。まるで

昔のタコ部屋のようで(ご存知ですか?)一度入ると抜けられません。前述の紅林が勤務先で知り合

った中山晶世、宗像の同僚(某・有名電機メーカー)で初めはお客様だった児島伸一は、第36回迄

実行委員長を務め、現在は賛助会員となり会を側面から支えている。出演者からの紹介でスタッフ

になった若月俊彦は、宗像、児島とはライバル関係にあるメーカー勤務。新潟勤務になった時も

1回のスタッフ会議には、新潟から通っていた。途中で音響担当者が転勤となり代わりにつれ

てこられたのが森田国弘。彼はこの音楽会が再開してまもなく、北海道本社勤務を命ぜられたが、

転勤するとこの音楽会に関われなくなると考え、会社を辞めてしまったと噂される強者。市橋の勤

務先での教え子で、音楽の道に進んだ関係上スタッフにならざるを得なかったのは、ディレクター

野田智子と二期会会員で、新国立劇場合唱団員の平田真理だが、二人とも裏方。第1回から、

プログラムの編集は市橋の弟・英俊を中心に行われていた。彼が外資系の会社を転々としているた

め、時には原稿が太平洋を行き来していた。英俊は、音楽会で渡される大きなプログラム(昔はB4

判だった)が、帰りに折られてしまうのを見て、ハンドバックに入る大きさをと、今のサイズに決

めた。プログラムの下が広く空いているのは、そこを持っても文字が隠れないという彼の考え。

初めはピアニストとして出演していたが、結婚後スタッフになっているのは、市橋みゆき。現在、

事務局を一人で切り盛りしている。チケットの注文が入らない日があると心配するが、旦那が呑気

で取りつく島もなく、一人悩んでいる。この人達が、中断前からのスタッフ。

 
 やがて赤字が膨大となり、またスタッフが働き盛りとなって転勤が相次ぎ、会の継続性が保てな

くなったことから、79年に一時中断する。中断の間、新年会だけは続けていたが、誰もがもう止

めたんだなと思っていた。市橋はその間、教師としてじっくり仕事をしていたのかと言うとそんな

ことはなく、「やがて運転手付の車に乗るから免許は要らない。」と豪語していたのに、87年に運

転免許を取得。突然趣味は写真だと言い出し、機材を車に積み込み、撮影と称して各地を飛び回る。

免許取得一月後には、車で北海道にまで出かけてしまった粗忽者。91年には煙火打揚従事者手帳

()を取得。なんと花火師になってしまった。

 
 95年初秋、突然以前のスタッフに召集をかけ、音楽会の再開を宣言。家族は呆然。混乱の中、

中断前のスタッフが全員揃い、寿司屋の2階で再び旗揚げをした。(蕎麦屋の2階ではない)その後

みゆきの友人だった中尾真知子と音楽会のお客様だった北村ゆう子が、実行委員会の中心メンバー

に加わった。北村は、バリア・フリーの仕掛け人。この人なしでは、この音楽会のバリア・フリーは

考えられない。北村と一緒に加わったのが宍戸佐弥。実はこの人市橋の教え子だが、紹介したのは

北村。現在は勤務の経験を生かし、プログラムなどの印刷関係を一手に引き受け、更に音楽会当日

はステージ・マネージャーとして活躍。若いスタッフを募集していますという市橋のアナウンスで、

37回から、もう一人の若手、木村はるかが加わった。この人も市橋の教え子。



 市橋と勤務先で机が隣だったため断りきれず、再開第1回目のオーケストラ集めに奔走したのは、

吉村美保。小学校の音楽講師の傍ら、ピアノコンクールで優勝したり、イタリアでの講習会にもア

シスタント・ピアニストとして参加する程の腕を持ちながら、この音楽会では出演の機会を与えて

もらえず、場内アナウンスと、オーケストラの係を担当。

 
 中断前までは、吉祥寺の武蔵野公会堂を中心に開催。また、同じ場所で続ける予定で再開したと

ころ、定員の1.5倍のお客様。もう少し広い会場でとのご意見を多数いただき、三鷹市の芸術文化

センター風のホールへ、ところが2回連続で完売となり、さらに広い武蔵野市民文化会館大ホール

へ、ここで2回行ったが、さまざまな理由から風のホールへ戻った。再開後はオーケストラの演奏

が中心となったため、オーケストラの名前をお客様から募集。

☆☆☆☆☆オーケストラ(いつつ星オーケストラ と読む)と決定したが、ちょっと気恥ずかしい。

 

オーケストラのメンバーは、スタッフと同じように、友達が友達を呼び、輪が広がっていった。

現在、メンバーはほぼ固定している。コンサート・マスターも21回から24回が藤掛由紀子さん、

25回以降は、主に小野智尋さんが務めていた。小野さんは桐朋学園大学を卒業後、ロンドンに渡

り、現在ロンドンに本拠を置きヨーロッパで活動を続けているが、毎年この音楽会のためだけに帰

国してくださっていた。特別に交通費をお支払いしたこともなく、ただただ申し訳なく思い、いつ

の日か、きちんと往復の飛行機代をお支払いできるような音楽会になりたいと考えていた。

35回からは印田千裕さんがコンサート・マスターを務めています。小野さんは別格としても、他

のメンバーも、各地から集まってくる。現在一番の遠方は、八戸。そのほかにも、長野県佐久市

神奈川県小田原市など。千葉県、埼玉県は当たり前となっているが、どなたにも交通費をお支払い

したことがない。と言うより出演料自体が、交通費にもならないもので申し訳なく思う。小田原か

らの出演者はクラリネットの井上弦さんだが、この人は再開後全ての会に連続出演。もう一人の連

続出演は、蕨市からの打楽器の粕谷友美さん。一方、万止むを得ない理由で1回欠席して連続が途

切れ、悔しがっているのはトランペットの山川洋樹さん。金管楽器はこの人のおかげで、一つにま

とまっている。


 本当は一人一人について書きたいところですが、それは改めてとします。が、どう考えても、皆

さんの暖かいお気持ち、音楽を愛する心で作られている音楽会といえる。感謝という言葉をいくら

申し上げても、とても足りない。本当にありがたい。

 

 20112月に市橋は脳梗塞と診断されて緊急入院した。幸い初期段階で発見していただいた

ので大事に至らず復帰できたが、予定していたその年の音楽会は、中止となった。前年の10月頃

からスケジュールを空けてくださっていたオーケストラメンバーには、何の保障もできなかった。

翌年開催するに当たり、皆さんに声をかけても断られるのではないかと心配していたが、皆さんか

ら「できるんですか! 良かったですね。勿論参加します。」と言っていただき、改めて心から感謝

しています。

 

 この音楽会が始まった1970年代頃、音楽会の会場と言えば、日比谷公会堂、東京文化会館、

新宿厚生年金会館、文京公会堂、杉並公会堂などで、音楽専用のホールなどは皆無の状態だった。

現在は有り余るほどホールが存在し、それぞれが、特色のある音楽会を主催している。そんな中で、

この音楽会の存在意義をどう考えていくのかが課題だと思う。親子3代でお越し下さっている

方がいらっしゃることを考えると、いつでもご家族揃って、安心してお楽しみいただける音楽会を

目指していきたいと思う。そして、実行委員の年齢に合った背伸びをしない構成・会場を考え、こ

の音楽会の初心を忘れないように心がけたいと思う。

 
 なお、もっと詳しい内情をお知りになりたい方は、スタッフになることをお勧めします。

(この文章は第25回プログラムに掲載されたものを基に、37回終了時点で実情に合わせて一部改定しました)